色々あった8月20日も、残り20分。
脅迫の件に伴い、念の為にと大友研究室にセンサーを設置する作業を行っていた雪人は
それを終え、警備室で一人機械警備に勤しんでいた。
小林は見回りの為外出中。
いつも茶々を入れに来る香莉も、この日は月海を自分用の部屋へ泊めている為、
棟内にはいない。
孤独――――と言うほどの寂寞感を覚える事はないものの、深夜の大学内と言うのは
病院にも似た、独特の冷たさがある。
これがもし冬であれば、今以上の冷然とした空気が張り詰めている事だろう――――
などと、無意味な思考に脳を浸していた、その時。
「お邪魔しまーす」
控えめながらも室内に大きく響くノック音に続き、湖がひょいっと
扉から顔を出した。
現在、11時41分。
女子高生が外出する時間帯ではない――――とも言い切れないのが現代社会。
尤も、雪人の知る湖と言う女子は、夜更かしして遊び回るタイプとは
明らかに異なる人種だった。
「何してんの。こんな時間に」
「何って、サークル活動に決まってるじゃん。忘れたの? 私、『ドゥ・イット・ライト』の
栄えあるブチョーなワケよ? その活動を純然と遂行する事に時間帯なんて関係ない!」
ビシッ、っと人差し指&中指を伸ばし、それを体の外側へ向けて捻っている。
それが決めポーズなのかと聞くのも憂鬱になる一瞬が過ぎ、雪人は静かに
視線をパソコンへ戻した。
「……差し入れ持って来たんだけど」
「それはありがたい」
問題のない事を確認し、すいーっと移動。
湖は羞恥からか赤面していたが、大人の対応でそれをスルーし、コンビニの
ロゴがプリントされたビニールをそそくさと受け取った。
「……カニ缶?」
「なんか、前に缶詰パーティーやったんだって? それを物欲しそうに眺めてた
っていう有力情報を貰ったからさー」
「何処からの情報だよ」
と言っても、あの場にいた数名以外は知る由もないので、特定は余りにも容易だった。
「相方は見回り?」
「ん? ああ。あと30分くらいで帰ってくるかな。そんで、交代」
「へー、30分……30分か……」
湖は、携帯で時間をチェックしつつ、んー、と唸る。
「小林に用事でもあるの? それなら携帯繋ぐけど」
「ううん、違う。あの人には特に用事ない」
「サークルに名前貸してくれてんだから、あの人呼ばわりは止めとけよ」
「あ、うん。そうね……」
落ち着かない様子で、湖は携帯をしまい、傍の椅子に腰掛けた。
その後、沈黙が続く。
それが重い空気なのか、そうでもないのか、イマイチ雪人にはわからなかった。
「ね、ねえ」
その沈黙を、湖が解く。
「黒木、このツアーに参加した目的は達成出来た?」
「突然だな」
「良いじゃない。で、どーなのよ」
その問いに対する回答を、頭の中で整理する。
それはつまり、大学へ行きたくなったかどうか、と言う事なのだが――――
「……わかんないな」
それが素直な答えだった。
「そうなの? 私から見たら、アンタってスゴくツアー楽しんでるなーって
見えるんだけど」
「それとコレとは少しニュアンスが違うしな」
確かに、ツアーに来て、退屈は一切していなかった。
一人暮らしは既に経験済みだったものの、まるで街の中にいるかのような
大学敷地内は、歩いているだけでも新鮮。
入学式も、高校までとはまるで違い、一種のパーティーのようだった。
サークル勧誘も、一部奇妙なのがいたとは言え、刺激的だった。
講義は、授業とはまるで違い、好奇心を擽ってくる。
何より、自分で受ける講義を決められる事が、楽しくて仕方なかった。
そして、研究室への所属。
なし崩し的な始まりだったが、結果として色々な事を経験するキッカケを
作ってくれたのは、大友研究室だった。
このアルバイトもその一つ。
そして、かなりの数の人間と知り合いになった。
そのスタートは――――
「何?」
湖だったなと、あらためて思い返しながら、雪人は不思議な気分で缶詰を握った。
「何笑ってんの。私の顔に何か付いてる?」
「ん? 笑ってたのか、俺」
自覚のない笑みは、体の底から染み出て来た感情の源泉。
確かに、これまでのツアーは楽しかった。
後10日足らずの日程で、それを更に膨らませる事が出来るのか。
それとも、予想もしない落とし穴が待っているのか。
大学へ行くかどうかと言う目的よりも、既にこのツアーをどんな気持ちで
終える事が出来るか、と言う事に意識が行っていると言う奇妙な事実に、
雪人はやはり苦笑せざるを得なかった。
「俺はともかく、そっちはどうなんだよ。サークル作って、それで満足って
ワケじゃないんだろ?」
サークルを作る、と言う目的は、湖は既に果たしている。
だが、そのサークルが機能しているかと言うと、雪人にはそうは見えなかった。
形だけの集団に、果たして意味があるのか。
尤も、それを決めるのは湖本人であって、一般的な価値観など何の意味もない。
その湖は――――少し寂しそうに、笑った。
「風紀委員って、クラスでどんな存在だと思う?」
そして、まるで脈絡のないような事を話し始める。
雪人は暫し考え、自分なりの回答を提示した。
「そりゃ、疎ましいんじゃないか? 服装とか交友とか、あーだこーだ
言われたくない年頃だし」
「甘い。全っ然甘い。あんこ入りのショートケーキに角砂糖突き刺して
食べるくらい甘い」
良くわからない例えをしながら、湖はキッパリ否定した。
「疎ましいくらいなら、特に支障はないのよ。寧ろ楽なくらい」
そして――――呟く。
「……私ね、ちょっとヘンな家に生まれたんだ」
ヘン、と言う言葉に、少し力がない。
それはコンプレックス特有の、無自覚の行為。
「って言っても、超大金持ちとか、有名なスポーツ選手の家庭とか、
そう言うワケじゃないんだけど。ただの元代議士」
代議士――――すなわち、衆議院議員。
その地位は、小選挙区選出か比例代表選出かで大きく変わってくる。
小選挙区選出の議員の場合は、確実に地元で大きな顔を出来る。
昔の貴族のように、その地域を牛耳ると言うのも、あながち大げさな表現ではない。
「で、親がとにかく地元でのメンツを気にする人だったの。だから、
私は最初、英才教育を受けてたんだって。小学校からお受験。記憶にないけどね」
その発言で、小選挙区選出の議員である事はほぼ確定し、同時に
雪人は湖の生い立ちに対して同情を禁じえなかった。
先程湖は超金持ちではないと言っていたが、国会議員の平均年収は約3000万円。
湖家は、これ以上貰っている可能性が高い。
当然、富裕層だ。
「でも、私はお勉強が出来ない子って言うのが、直ぐにわかったみたい。
それでも英才教育を続ける家庭もあるけど、私の場合は早々に見切られて、
別の方向にシフトして、兎に角清潔感を出すようにって育てられたのよ」
雪人は絶句した。
完全に絶句した。
ダラダラと流れる冷や汗を自覚しつつ、目を泳がせる。
「どのツラ下げて清潔感のある女に育てられたなんて言ってんだコイツ
……って言いたいのね。そうなのね」
「いや、その、なんと言うか」
発言に困窮する雪人に、湖は――――笑った。
「私ね、今通ってる学校もそうだけど、その前の中学も、小学校でも、
ずーっと、ずっとキャラ演じてんのよ」
「……キャラ?」
「要するに、自分じゃない人格。清潔感とか透明感があって、誰にでも
人当たりが良くて、礼儀正しくて、優しくて、お淑やかで、それでいて
気さくな一面とか、軽く裏があったり、ちょっと欠点があったりして、
同性からも一定の好感を持たれる人間。それが、普段の私」
雪人は――――今度こそ絶句した。
そんな人間がいるのか、と。
ある程度、本来の自分でない人格を演じると言うのは、誰もが経験している。
自分自身を曝け出すのは、言ってみればウイルスだらけのインターネット上に
何の対策も講じずに飛び込むようなもの。
普通は、ウイルス対策、リソースの抽象化等を行う。
雪人にしても、それは例外ではない。
だが、湖が演じているのは、まるで何かの物語の登場人物と言うくらい、
具体性を帯びすぎている。
「それは、苦痛じゃないのか……?」
「ずっと、そう言う風に育てられてきたから」
慣れている、と言うよりは『そうするしか術を知らなかった』と言うニュアンス。
ヘタに壮絶な人生を送るより、遥かに辛い事は想像に難くない。
一体、どうやって正気を保っているのか――――そんな事すら思わずには
いられなかった。
「風紀委員も、その一環って事か」
「そ。生徒会に入れるほど優秀じゃないし、委員長も任せられない。
でも、それを逆手にとって、『才女じゃないけど、礼儀正しくて清潔感がある、
親しみやすい女子』って言う人格を演じる上で、一番適してるのが風紀委員。
最後まで図書委員と迷ったって、真顔で親に言われた時は、流石に泣いちゃった」
レールの上を歩くだけの人生。
よく言われる、否定的な意見。
湖は、レールの上にすら上げられなかった。
レールが傷付かないよう、その傍の荒れた道を裸足で歩かされている。
血だらけになりながら。
「……初めて会った時のコト、覚えてる?」
また突然、話題が変わる。
ただ、今度は雪人は淀みなく答えた。
「船上じゃない方、で良いんだよな?」
「あ、覚えてるんだ」
湖は、嬉しそうに微笑んだ。
そこに、人格を演じていると言う形跡は欠片もない。
心から、自分の感情を表している――――そう言う風にしか見えない。
「妙な出会いだったからな。最初、箱がどうこう言ってて、いきなり
アンタ誰、箱なんて探してません、と来た日にゃ、忘れろって方が無理だ」
「あの時は……ちょっと、ボーってしてて。必死に探してて、疲れてたの」
「で、箱ってのは見つかったのか?」
湖は、首を横へと振った。
「でも、あの時初めて、自分の言葉で男子と話が出来たんだ。
それまで、そんなコト考えもしなかったのに。それも、なーんかヘンなヤツで、
初対面の女子にやたら馴れ馴れしいって言うか」
「そんな態度取った覚えはないんだけど……」
「おちゃらけてたじゃない。最初、絶対女慣れしてる人だって思ったもん」
実際には寧ろ逆。
雪人は、人見知りは全くないが、女子の扱いには慣れていない。
それはその後、湖も知る事となる。
この離島での生活で。
「……ここに来たのはね、私の意地みたいなもの。私は私で、自分で今見せてる
この私自身の人格を育てて来たんだから、って言う。ここならそれが出せるから」
「親は良く許したな。女一人で、新鋭ツアーへの参加なんて」
「許してないけどね」
ペロッ、と舌を出す。
そんな湖を見て、雪人は一瞬驚き、そして――――思わず破顔した。
「お前、それ良いのか? 帰ったらマズいんじゃないか?」
「うん。でも、良いの。自分はココにいるって自覚出来たし。自分で何かを
作りたくて、大学って言えばサークルって思って、サークル作るって決心して、
結果作れたんだし。満足」
湖は――――このツアー中、ずっと闘っていた。
そんな素振りは、全く見せない中で。
過去や親、環境、周囲が作り上げた自分と、本当の自分が、せめぎ合っていた。
その結果、サークルを作る事に成功した。
中身は必要なかったのだ。
既に湖は、目的を果たしていた。
「……大したヤツだよ、お前」
カニ缶のプルタブを開けながら、雪人は心の底から感心した。
過去の自分を鑑みると、その感情はより増してくる。
流されるように利用され、また流されるように救われ。
漂流者のような人生を歩んできた雪人には、湖の意地は眩しかった。
「アンタのお陰じゃない」
「ん?」
カニの身を口に含んだ雪人から、湖が視線を外す。
「ココに来る決心が出来たのも。おっかなびっくりで、それでも何とか
一人で生活出来たのも。サークル作れたのも、何人かの人と親しくなれたのも……
全部、アンタがいたから、でしょ」
「何言ってんだよ。俺何もしてねーだろ。あ、サークルの件は結構貢献したと思うけど」
「そう言うコトじゃないの。バカ」
そっぽを向いたままの顔を、湖は更に背ける。
雪人の視界から、その顔は完全に見えなくなった。
「……あのさ、えっと……」
「あ、カニ欲しいのか。悪かったな独り占めして。ほい」
「違うって」
いつもはもっと声を張って対応する筈だったが、湖は声を荒げず、優しく否定した。
一瞬、雪人の胸が泳ぐ。
目ではなく、胸だった。
「えっとね、えっと……」
「……」
暫しの沈黙。
先程の空気とは、全く質が違う静寂が、警備室を支配し――――
「私は――――」
次の瞬間、その全てを飲み込むようなブザー音が響き渡った。
形容し難い、擬音にもし難いその音は、鼓膜を直接刺激してくる。
確実に、その場所にいる人間が気付くように。
「な、何!?」
「ちょっと待って」
慌てず騒がず――――と言うのは流石に難しい中、雪人は急いで
パソコンの画面を確認した。
以前あったような、センサーの返信異常ではない。
明確な、侵入者の存在を知らせる音。
そして、その侵入者を感知したセンサーは――――
「……ウチの研究室か?」
つい本日設置したばかりのセンサーが、異常を報せている。
「ちょっと行って来る。ここにいろ」
「私も行く! 私にもその役目があるんだから!」
サークル『ドゥ・イット・ライト』は、大学を監視し、その安全を管理する
事を主な活動としている――――と、湖は以前のセンサー騒動の際に定義している。
女子を危険な場所に向かわせるなど、もっての外なのだが――――
「危険があったら直ぐ逃げろよ」
湖の行動理念を知った雪人は、それを了承した。