既に幾度となく通って来た夜の館内を、切り裂くように走り行く。
 床を叩く足と心臓の鼓動がリンクする中、雪人は背後の湖に視線を向けた。
 不恰好に走る様は、お世辞にも運動神経が良いとは言えない。
 その事は、既にビーチドッジボールの際に露見していたので、想定内ではあった。
 問題は、不測の事態が起こる可能性。
 敢えて、湖の同行を許可したのは、侵入者が一人とは限らないと言う事が
 頭の中にあったからだ。
 もし不在の際に警備室に何者かが侵入しようものなら、それこそ最悪の状況。
 それなら、危険に身を投じつつも、目の届く場所にいてくれた方が良い。
 月海への脅迫事件が、そんな判断をせざるを得ない心境へ雪人を追い込んでいた。
「……開いてる」
 二階の廊下に足を踏み入れたところで、直ぐに異変に気付く。
 視界に、大友研究室のドアが半開きになっている光景が飛び込んできた。
 研究室の扉の鍵は、全員が合鍵を所持し、最後に研究室を出る人が閉めるように
 なっているので、人為的なミスとしてかけ忘れた可能性が考えられる。
 ただ、仮にそうだとしても――――半開きのまま帰る事はない。
 当然、何者かが開けたと言うコトだ。
 それが、たまたま鍵を掛け忘れていたトコロへ侵入したのか、合鍵を持っていて
 それを使って侵入したのかは、わからない。
 少なくとも、この時間帯に研究室への出入りがあった事だけは確かだ。
 隙間から僅かに覗く室内に、光は見えない。
 電気をつけてない事が窺える。
 この時点で、今回の件が『大友研究室の一員が何らかの理由で入った』と言う
 可能性は、消える。
 幾ら深夜とは言え、もし忘れ物をした場合、宇佐美嬢や結衣辺りが
 それを取りに来た可能性が、あるにはあった。
 が、それなら電気は点けている筈。
 ブザーがなって、ここへ雪人達が来る感、ずっと暗い中で室内にいるのは
 明らかに不自然。
 雪人の中で、緊張感が高まる。
 それは、まるで――――おとり捜査にこき使われていた過去の自分が
 戻ってきたかのような、奇妙な感覚だった。
「黒木、ど、どう? 誰かいた?」
 ようやく湖が発言する。
 この距離を走った時点で、相当に肺に負担が掛かったらしく、息切れが著しい。
 運動不足なのは明らかだったが、今の雪人にそれを茶化す余裕はなかった。
「取り敢えず、背中に張り付いといて。ドッジボールの時みたいに」
「え……う、うん」
 そんな雪人の言葉に、湖は三度ほど細かく頷き、雪人のシャツの裾を強めに握った。
 その後、二人一緒に歩を進め、大友研究室の半開きの扉の前まで、
 ゆっくりと移動する。
 その間、物音は全くしない。
「ど、ドロボウなのかな。ドロボウだったら、どうしよう。武器とか持って来た?」
 メンタルがイマイチ強くない湖は、早くも怯えていた。
 自発的な行動でここに来た割に、既に後悔全快の様子。
「一応、警棒はあるけど、あんま役に立ちそうにないんだよな、コレ。
 お前、持ってて」
 実際には――――警棒はそれなりに役には立つ。
 60cm程度の長さで、強化プラスチック製のその棒は、頭を殴打するよりは
 剣道の『コテ』の感覚で、ナイフや包丁を所持している犯人の武器を叩き落す
 事が最も効果的な使い方だ。
 ただ、それを実践するには、結構本格的な訓練が必要なのだが、警備員には
 それを行う義務はない。
 一応、警備員として働く前に、使い方は一通り習いはする。
 が、実際にその棒で誰かを殴る、と言う事は当然しないし、実践訓練のようなものもない。
 威嚇の道具としても、脅威とは言い難く、攻撃性と言う点においては余り期待出来ない
 と言うのが実状だ。
 しかし、防御と言う面では、中々に優秀。
 拳銃が相手ではどうしようもないが、ナイフなどの場合、警棒で防ぐ事は可能だ。
 ナイフを使い慣れている犯罪者の場合は、振り回さずに身体ごと突進して
 押し込むように刺して来るので、対応は極めて困難だが、大抵の場合、犯人と言うのは
 ナイフの正しい刺し方など知りはしない上、誰かに見つかればパニックになるもの。
 そう言った際に身を守る上で、警棒は長さ、重さ共に使い勝手が良い。
 それを知った上で、雪人は警棒を湖に渡した。
「万が一、刃物を振り回して来たら、それを顔の前で握っておけ。そして、隙を見て
 逃げろ。それ以外の行動は一切するな。絶対に」
「……わかった」
 湖は――――或いはこの時点までは、怯えつつも何処か『サークル活動』のノリが
 多少なりともあったのかもしれない。
 遊びの延長、とまでは言わないものの、どうせ身内がセンサーに引っかかったんでしょ、
 と言うような、軽いオチの付くイベント。
 だが、それも雪人の顔と口調で消えたらしく、震える手で警棒を受け取り、握った。
 多少大げさなくらいが、こう言った場面では丁度良い。
 そう習っていた雪人は、湖のその姿に満足し、扉にそっと近付く。
 未だ、物音はない。
 人の気配もない。
 とは言え、油断は出来ない。
 小さく息を吐き、また吸い、呼吸を整え――――扉側の壁に張り付くようにして
 中の様子を注意深く窺う。
 不意に、耳に覚えのある音が入って来た。
 声ではない。
 物音、でもない。
 自然の音。
 普段の生活の中で、何気なく入ってくる音。
 それは――――風が木の葉を揺らす、さざめきの音だった。
(窓が……開いてるのか)
 そうなってくると、話は変わってくる。
 雪人は意を決し、機敏な動作で手を伸ばして半開きの扉を完全に開け、再び壁に身を隠した。
 湖が怯えるように身を竦ませる中、研究室内からのリアクションは――――ない。
 流石に、この時点で内部に人がいる可能性はほぼなくなった。
 とは言え、隣の教授室に身を潜めていると言う可能性は残っている。
 依然として、油断は出来ない。
 雪人は湖に指で中へ入る事を知らせ、研究室内へ足を踏み込んだ。
「……!」
 その瞬間――――二人同時に気付いた。
 窓が開いている。
 割れている様子はないし、穴も開いていない。
 空き巣が進入する箇所として窓は圧倒的に多く、一階より上のフロアでも
 頻繁に狙われてはいるが、それはあくまでベランダ等の足場があるからこそ。
 この棟の窓の周囲に、足場はない。
 よって、二階であるこの研究室に窓側から侵入する可能性は、極めて低い。
「……ドアから入って、窓から逃げた?」
 そんな湖の発言を背後から聞きつつ、雪人は隣の教授室を空ける。
 そこにも、やはり誰もいなかった。
 特に荒らされた様子はない。
 そして、こちらの部屋は窓は開いていなかった。
「取り敢えず、ここに侵入者はいないみたいだ。湖、悪いけどちょっと床に何か落ちてないか、
 調べてみてくれ。俺は紛失した物がないかチェックしてみる」
「わかった。任せて!」
 危険がない事がわかり安堵したのか、湖の顔には血の気が戻っていた。
 それを確認し、雪人はまず自分のデスク周りをチェックする。
 パソコンも立ち上げ、データを確認したが、特に変化した形跡はなかった。
 水槽内では、まだ白点が痛々しい縷々が元気良く泳いでいる。
 パッと見た限りでは、異変らしい異変は何もない。
「床にも特に何も落ちてないみた……あ、何かあった」
 そんな中、湖が何かを発見。
 その声の方に視線を送った雪人は――――その『何か』に思わず目を見開いた。
 それは、鍵。
 ホルダーの付いていない鍵だった。
 そして、その鍵のヘッドに、雪人は見覚えがあった。
「ここの鍵、か?」
「え? そうなの?」
 試しに、一旦廊下側に出て、扉の鍵穴に入れ、捻ってみる。
 結果――――ガチャリと音を立てて回った。
「侵入者が落としたのかな?」
「多分。でも、確実ってワケじゃない。もしかしたら、研究室の誰かが
 偶々落としてたのかもしれない」
「でも、もし侵入者が落としてたとしたら、この合鍵を持ってたってコトは
 侵入者は研究室の人……?」
 大友研究室の合鍵を持っているのは、研究室内の人間のみ。
 湖の呟きに、雪人は首を捻らざるを得なかった。
 仮にそうだとして、目的が全くわからない。
 窓が開いているのは、恐らくはそこから脱出したと言う事。
 念の為、窓から身を乗り出して見てみるが、外灯の光が届く窓の真下に
 人の気配はなかった。
 そこはコンクリートの地面になっているが、窓の傍を伸びているパイプを伝えば、
 下りる事はそれほど難しくはないだろう。
 こうなってくると、考えられるのは――――
「誰かが、合鍵を使って室内へ侵入。その時点で、パッシブセンサーが反応。
 驚いた侵入者は、慌てて窓を開けてパイプを伝って降下。その際、合鍵を
 落としてしまった」
「それなら説明は付くけど……研究室の人達が、わざわざ窓の外に逃げる?」
 湖の疑問は、同時に雪人も抱いていた。
 結衣も、宇佐美嬢も、月海も、警備員として雪人が待機しているのは知っている。
 仮に、忘れ物を取りに来て、センサーが反応して音を鳴らした事で驚き、
 混乱したとしても、窓から逃げると言う行動は選ばないだろう。
 まして、雪人以外は全員女性。
 そんな蛮行には及ばない筈。
「ね、やっぱりこれって、あの人なんじゃない? ここに前にいた」
「白石、か……」
 その可能性は、一番高いといわざるを得なかった。
 トレード成立後にも合鍵を返していなければ、説明は簡単についてしまう。
 もし白石が侵入者なら、雪人が警備員として待機している事を知っていても、
 逃げると言う行動に出るだろう。
 尤も――――その白石が何故、深夜に研究室へ忍び込んだのか、と言う疑問は残るが。
「何にしても、明日全員集めて、話をしてみよう。もしかしたら他の誰かの所持品が
 なくなってるかもしれないし」
「そうね。にしても、不気味……」
 湖は、疲れた顔で嘆息した。
 尚、現時点までずっと、湖は雪人のシャツの裾を握っている。
 離す気配はない。
「……」
 それを指摘するか否かで悩みつつ、雪人は暫くその場に立ち尽くしていた。
「黒木……そんなに思いつめない方がいいよ? もし研究室の誰かだとしても、
 何かそうしなくちゃなんない理由があったのかもしれないし」
「いや、そういうコトで悩んでるんじゃないんだけど」
「?」
 無垢な湖の仕草にちょっと胸を動かしつつ。
 色々な感情が混ざり合った心を均すように、雪人は重めの溜息を落とした。









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