死に至る病、と言う言葉がある。
哲学者キルケゴールが著した有名な哲学書で、その由来は新約聖書ヨハネ
福音書11章4節の中に登場する『ラザロは死にたり、されどこの病は死に至らず』
と言う一説にある。
この裏返しが『死に至る病』と言う事だ。
簡単に要約すると、本質的な死とは肉体の崩壊ではなく『絶望』であり、
その絶望には『自己消失』、『自己放棄』、『自己妄執』の3つがある、と言う事。
その辺りの解釈に関しては、キリスト教ならではの価値観に基づくものなので、
さておくとして――――
雪人は今、絶望していた。
では、その絶望が一体どう言う類の絶望なのか、と考え、そして導き出したのが、
この中で一番マイナーな『自己妄執』なんだろうな、と言う答えだった。
要するに、自分を追い込みすぎているんじゃないか、と言う結論。
例えば、沢山の女子に囲まれて気分を良くする自分がいても良いじゃない、
と思えれば、そこに絶望などある筈もない。
それで少しでも心が躍れば、寧ろ幸福論の方に話は進んでいく。
が――――結局のところ、そういう気分になれないのには、明確な理由があった。
『お前はいつからそんなに女性にだらしなくなったんだ。全く……情けない』
そう思われるかもしれない、と言うストレス。
それはもう、とてつもないストレスだった。
「どったの、ゆっきー。早く入って入って」
コンビニの袋を両手一杯に抱えている自分を改めて自覚したのは、
香莉宅の扉が目の前に迫っている最中。
買い物の段階で、既にそんな思考によって意識が朧げになっていた為、
今自分が下げている袋の中に何が入っているのかもわからない、そんな状態だ。
「俺は一体、何をしてるんだろう……ははは」
とめどなく涙が出てくる。
自然と自嘲の笑みも漏れた。
「何? そんなに私の家に入るのが嬉しい? やーねーもう、ゆっきーってば。にはっ」
「はは……」
とは言え、逃げ出す訳にもいかず。
雪人はどんよりした心持ちで、玄関に足を踏み入れた。
既に5組の靴が並んでいる。
全部女もの。
明るい色合いのコンフォートシューズやローファーの中に、スニーカーが一つ
混じるのは、違和感以上に孤独感が滲み出ていた。
「お邪魔……します……」
「はーい、あがってー。あんまりジロジロ見ないでね、きゃはっ」
香莉は明らかに悪ノリしていた。
明らかに楽しんでいた。
そして同時に、それはまだ序曲に過ぎないと言う、邪悪な微笑みも浮かべていた。
残り少ない日程の中で、この日がピークになると。
ここで絞り尽くしてやると言う、強烈なメッセージが込められていた。
「ふふふふふ……」
谷口香莉、至福の時。
が、雪人は当然、それを阻止する必要がある。
「ははは……」
対抗して、笑った。
「ふふふ」
「ははは」
廊下を歩く二人は、顔を見合わせる事なく、火花を散らしていた。
「? どしたの、なんか二人して怖いんだけど」
居間に着くと同時に、湖が寛いだ様子で早速腰を下ろしている。
やはり女性同士と言う点が大きいのか、雪人と比較すると、明らかに
リラックスしている。
既に昨日一泊している月海は更に余裕があり、台所に自分の持っていた
小さい袋を置きに行っていた。
香莉の親友であるところの宇佐美嬢に到っては、我が家のような振る舞い。
既に何度か訪れているのだろう。
脱力しつつ、勝手にエアコンのスイッチを入れていた。
そんな中――――
「……あの、この荷物はどこに」
結衣だけは、かなり緊張している面持ちで、所在なさげに聞いていた。
そんな人見知りの従妹が、今はちょっと頼もしくすら感じる。
奇妙な感覚の中で、雪人は居間を見渡した。
ツアー参加中、年上の女性の部屋を訪れるのは、宇佐美宅に続き二度目。
ただ、その様相は全く異なっていた。
コバルトグリーンのカーテンとローズグレイの絨毯は、アイボリーの壁と
キレイに調和しており、派手過ぎず、地味過ぎず。
棚の上に飾られた小鳥のデコレーションアイテムと観葉植物も相成り、
夏でありながら、春の彩りを感じさせる。
32型のテレビの傍には、イミテーションのバラと果物のオブジェ。
全体的に淡い色使いとなっているので、目が疲れない。
毒々しさを指摘する箇所は、何処にもない。
ただ、この意外性すら、雪人には牙を剥く前の魔女の笑顔の一部に見えた。
「流石に6人は多いかー。結構広いんだけどね、ココ」
そして、その魔女は気だるげに呟きながら、ロングのソファーに腰掛ける。
ちなみに、研究室のソファーより遥かに新しい。
このツアーの為に購入したとは考え難いシロモノだ。
「さて、と。取り敢えず、汗流しとく? 結構歩いたからねー。私は最後で良いから、
テキトーに順番決めてってよ」
そして、部屋の主はサラッとそんな事を言い出した。
無論、視線は雪人にロックオン。
「……こ、この女……」
女子に囲まれる中で、女子のシャワー音を延々と聞き続ける苦悩。
それは、希薄な関係の親類と二人きりになってしまった法事の夏――――
とか、そう言う感じの状況すら余裕で越える気まずさだ。
「え、えっと、それはちょっと……流石に」
沈黙が続く中、湖が困り顔で首を横に振った。
「なーに言ってるのよ。汗かいたままでいる方がヤでしょ? 気持ち悪いでしょ?
ネットリしてて気分悪いでしょ? そして自分の汗の臭いを他の人に嗅がせるのは
気が引けるでしょ〜〜〜う?」
「う……それは確かにそうかも」
湖は怖気づいた!
そして、それを皮切りに、女性全員の視線が雪人に注がれる。
「わ、わかったよ。俺は暫く街ぶらついてるから、その間に入っててくれ」
「ダメよそんなの! ゆっきーはここに居てくれないと! 唯一の男じゃない。
女の子がシャワーを浴びてる時、不審者がンヴォワーって湧いて来たら
どーすんのよ。警備員なんだから守らないと」
「俺を辱めて弄ぶ気満々だなオイ。言っとくけど、アンタの思い通りになる気はないからな」
流石にガマンできず、言葉にして牽制。
しかし――――雪人のそんな奮闘も、実る事はなく。
「……」
宇佐美嬢の欠けた居間で、じっとする事を余儀なくされた。
遠くにシャワー音が聞こえる。
それがやたら卑猥な音に聞こえ、耳を塞ぎたい心境で顔を手で覆った。
「くふっ」
香莉の満足そうな笑い声が聞こえて来る。
楽しんでいるようだ。
この上なく、楽しんでいる。
そんな年上の女に対し、雪人は戦慄と同時に、殺意すら覚えた。
(殺す……今日中に殺す)
無論、実際に殺しはしないが。
そんなこんなありつつ、宇佐美嬢が蒸気をまとって再入室。
メガネとヘアピンを外しているので、まるで別人だった。
「な、なんか気まずいですね……えっと、次の方どうぞ」
「はひっ」
湖が立ち上がる。
そして――――雪人の方をチラ見し、一旦視線を外した後にまた向けた。
「の、覗かないでよ……って言うべきなのかな、ここ」
「この状況で覗きに行くアグレッシブさがあるなら、そもそもこんなツアーには来てない」
まるで抑揚のない雪人の発言に、湖は『たはは』と苦笑し、居間から消えた。
「ゆき、死にそう……寝てた方がいいよ」
「いや、そう言う体調の悪さじゃないんだ。でも、ありがと」
従妹に心配されつつ、再び聞こえるシャワー音に嘆息。
雪人の精神は確実に削られていた。
「さって、と。あんまりボーってしてても何だし、夕食の準備でもしとこっかな」
そんな中、香莉が突然ムクリと立ち上がった。
「準備っつっても、コンビニ弁当温めるだけでしょ」
「ノンノン。その弁当の数々は、あくまでも添え物。惣菜ばっかでしょ?」
余り購入した際の記憶がない雪人は、ヨロヨロと立ち上がり、キッチンに
置かれている袋の中身を確認してみた。
――――缶詰ばかりだった。
「……宇佐美さん」
「ご、ごめんなさい」
謝られても困るので愛想笑いを浮かべつつ、他の袋も見てみたところ、
確かに惣菜やスイーツ中心。
主食となるものは余り買っていない。
「じゃ、それを今から作るって事?」
「ふっふ、任せなさい。私、こう見えて料理は一切やった事がないんだから!」
「一切!?」
ある程度展開を読んでいたものの、流石にその言葉には恐怖を覚え、
雪人は一歩後退った。
「大丈夫だってば。みんなで作るから。ね」
ニッコリと微笑む香莉に、月海、結衣、宇佐美嬢は全員頷く。
だが――――自信あり気な表情の女性は、一人もいなかった!
「えっと……吉原は料理、得意?」
「家庭科の授業以外で刃物を握った事は……」
「ゆ、結衣ちゃんは」
「ホットケーキ、作ったことある。まっくろけの」
「……」
「せ、せめて私にも聞いてください!」
更なる絶望と宇佐美嬢の悲鳴にも似た声が漂う中、雪人はもう一つ絶望を上乗せした。
湖が料理を得意としている可能性――――それは明らかに低いと言わざるを得ない。
これだけ女子がいて、このザマである。
以前、闇鍋のようなモノを研究室で行った際の惨状を思い出し、雪人は眉間を
親指の関節で抑えた。
「ちなみに……何を作る気なんですか」
「パスタよパスタ。女の子がこれだけ揃えば、パスタは通らないと行けない道よね」
意味のわからない事を言いつつ、香莉はキッチンへ向かい、大量の乾燥パスタを
抱えてきた。
「パスタか……それなら何とか。ソースも買ってるんですよね?」
安堵――――は、一瞬だった。
「ううん。作るってばよ。トマト煮込んで」
「止めろーーーーっ! 素人がトマトに火を通すのは危険だって!」
「あと、カルボナーラも作ってみようかなって思って、チーズも買ってきたのよ。
ほら、コレ」
今度はチーズを持ってくる。
『ブルーチーズ』と書いた。
「だああああああああっ! 何処の世界にブルーチーズでパスタを作る奴がいるんだ!」
「えっ、ダメなの!? なんかマーブルな感じで超美味しそうなのに!」
死に至る病。
それは、精神的な死を意味するのだが、この場合肉体的な死とも直結していた。
「ふーっ。すっきり……どしたの?」
二つのテールを下ろして、やはり別人のようになって再訪した湖がキョトンとする中、
雪人は受難の夜と言う名の病に伏せていた。
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