料理と言うのは、手際や手順が大事な訳ではない。
まして、材料の選定や技術など、必須と言う事は決してない。
重要なのは、味見。
これだけだ。
コレさえ怠らなければ、おかしな事になると言うケースは確実に排除できる。
例えば、砂糖と塩を間違える、と言うお約束に関して考察してみよう。
確かに、砂糖と塩は外見上、かなり類似している。
その物を目視で区別するのは難しい。
仮に、表記のない容器が二つあり、どちらかが砂糖、どちらかが塩と言う
状態で、それを正しく判別するのは容易ではないだろう。
が、味見をすれば話は別だ。
味覚によって、このお約束は瞬時にして回避できる。
同じ事が、料理全般には言える。
仮に、コンソメスープを作るとしよう。
通常は、コンソメスープの素のパッケージに表記している分量を入れれば
それで全てが終わるのだが、それを読まなかったうっかりさんが
適当に素を入れてしまい、やたら濃くなってしまったとする。
問題はない。
味見をすれば、濃い事に気付く。
そうなれば、今度は水の分量を増やせばいい。
鍋の中で、何度も味見を繰り返しながら、調整していけばいい。
そうすれば、正しい分量を知らなくても、濃すぎず、薄すぎずのゾーンに
いつかは突入する。
そうすれば、最悪でも大怪我はしないだろう。
どんな料理においても、そう。
突き詰めれば、どんな味に関してもそうだ。
濃すぎず、薄すぎず。
そのゾーンさえ見極められれば、絶対に大惨事にはなり得ない。
つまり、コメディで良く見受けられる、想像を絶するような酷い食事に
悶絶すると言うシーンは、現実には確実に回避できる、と言う事だ。
「……あの、先程から何を呟いているんですか」
「別に何も」
香莉宅の居間で、雪人は体育座りをしながら、希望の詩を謳っていた。
そんな不気味な姿を、月海はテーブル越しに眺めている。
現在、この家では仁義なき料理戦争が勃発中。
参戦しているのは、香莉、宇佐美嬢、湖、結衣の4名。
台所の面積の関係上、5人は流石に無理と言う事で、月海は配膳係に任命されたようだ。
「皆さん、一生懸命頑張って作ってますから、大丈夫ですよ」
「一生懸命は安全保証条約の条項には入ってない気がするけど……」
「……」
月海は返答はせず、じっと雪人の方角を眺め続けていた。
無理して会話を継続させるタイプではないと言う事は、これまでの
短い付き合いの中でもある程度把握している事もあって、雪人は
特に気に留める事なく、テレビのリモコンを手に取った。
BS、CS放送には対応していないらしく、番組の選択肢は余り多くない。
適当にチャンネルを選んでいると――――偶々、魚の泳ぐ映像が二人の目に
入ってきた。
回遊魚の群れらしく、広大な海の中をざっくりと泳いでいる。
「見る?」
雪人の問いに、月海はフルフルと首を横に振った。
「この放送は、もう見ました」
「再放送か……ま、時間帯的にそうだよな」
結局、目ぼしい番組もなく、電源を切る。
雪人はリモコンをテーブルに置き、絨毯の上へ寝転んだ。
香莉宅の天井は、雪人のアパートよりも高い。
全てにおいて、質は上。
ただ、羨ましいと言う感情は一切湧いてこない。
寧ろ、条件の悪い場所で寝泊りする方が、心は躍る――――そう考える事自体
子供じみていると、こっそり苦笑しながら上体を起こした。
「縷々、大丈夫かな」
自然と、研究室で病を患っている熱帯魚の名前が出てくる。
「大丈夫です。白点病は、かなりの可能性で掛かる病気ですけど、その多くは
完治しますから。ただ、それまで一月以上掛かるので、その期間は少しだけ
注意深く見守ってあげてください。あと、ベタは尾腐れ病にも掛かりやすいので
そちらにも注意をしてあげてください。それと、完治した後の水ですけど……」
そして、相変わらず熱帯魚に関する月海の口数は多かった。
「……吉原は、どうしてそんなに熱帯魚が好きなんだ?」
ふと、そんな疑問が湧いてくる。
同時に、以前同じ質問をした事があったかどうか、と言う疑問も。
ただ、その回答は頭の中には存在していなかった。
「……」
月海は、答えない。
言いたくないのか、幾つもありすぎて厳選しているのか。
その表情からは、嫌悪感か思案中かはわからない。
ただ、回答は直ぐ提示された。
「沢山あり過ぎて、一つには絞れません」
その答えに安堵しつつ、雪人は小さく笑った。
「敢えて一つ、って聞いてみよう。どう?」
「一つ、ですか」
特に、そこまで執着する程の関心はないものの――――雑談の延長の心境で、
雪人は追随を敢行した。
一方、月海は相変わらず感情の読めない顔で、暫し虚空を眺め、口を開く。
「同じ、だからかもしれません」
「同じ?」
「はい。私と、同じ」
月海は、いつもと変わらない口調で、淡々と告げた。
同じ――――と言うのが、どう言う意味を指すのか、雪人にはわからない。
熱帯魚と言う存在と、吉原月海と言う存在が、同じ。
そう言っているのなら、それは余りにわかり辛い理由だった。
同時に、それ以上の追求は避けるべきだ、と言う心情が湧いてくる。
仮に話してくれるとしても、それは余り気分のいい内容ではない――――
そんな気がした。
「……そっか」
「はい」
結局、話はそこで終わった。
少し所在無い気分になり、雪人は改めて部屋を見渡す。
余り他人の家、それも女性の家でキョロキョロすると言うのは好ましくない
行為なのだが、香莉の性質の所為か、罪悪感はまるでなく。
「あ、発見」
そして、その成果は『トランプ』と言う形になって現れた。
気心が然程知れていない相手との時間潰しには最適のアイテム。
他のゲームと違い、知らないと言う事は殆どなく、バリエーションも豊富で、
実力差も出ない遊びが可能な、まさに夢のような遊具だ。
「吉原、トランプで知ってるゲームはどれくらいある?」
「月並みですが、ババ抜き、神経衰弱、ぶたのしっぽ、7並べ、ジンラミーくらいです」
「最後のは月並みかどうか微妙だけど、大体そんな感じだよな。
よし、神経衰弱をやってみよう」
ケースに入ったトランプを取り出し、切る。
トランプに触れた事自体、雪人にはかなり久し振りの事だった。
中学生の頃。
やはり、女性と二人でゲームに興じた過去を思い出し、思わず笑みが零れる。
携帯ゲーム全盛の今の時代、昔ほどカードゲームが重宝されなくなった中で、
それでも実際にやってみれば結構熱中するもので、実際その女性も年甲斐もなく
かなりムキになっていた。
月海は、到底そういうタイプではないが――――
「ただ、普通にやってもアレだしな。何か賭けよう。お金とかじゃなくて、
もっと健全な感じの」
「賭け、ですか。それ自体健全ではない気もしますが、わかりました。
受けて立ちます」
意外な事に、月海は予想以上にやる気を見せていた。
ドッジボールの時も、地味にMVPを獲得した女子。
或いは、勝負事に対して、見た目以上に燃えるタイプなのかもしれない――――
そう月海の人物像を脳内で書き換えつつ、雪人は賭けの対象を探した。
「そうだな……洗い物の数、にしよう。負けた回数イコール、洗う皿の数」
調理に加勢しない代わりに、後片付けと皿洗いはするつもりでいた雪人の
その提案を、同じく調理組から外れた月海は快諾。
斯くして、洗う皿の数を賭けた、二人だけのほのぼの神経衰弱大会が幕を開けた。
じゃんけんの結果、先攻は雪人。
テーブル上に散らばったカードを、無造作に二枚捲る。
『スペードの7』と『スペードの8』。
「……悪くないな」
当たった訳ではないが、妙に気分のいい組み合わせに満足し、
雪人は納得顔でカードを戻した。
一方、月海は――――今しがた雪人が捲った『スペードの8』をもう一度捲り、
後一枚のカードは、全く別の物を捲った。
『ダイヤのA』。
外れだった。
この月海の行動は一見、確率論で言えば愚行に思える。
一枚目を、既に開いているカードを選択した場合、次のカードで当たりを
引く確率は、50分の3。
一方、全く捲っていないカードを捲って、そのカードが雪人の引いた二枚と
同じ数字である確率は、50分の6。
更に、外れた後に引いた二枚のカードが偶然当たりを引く確率が、49分の3。
この二つを足す事が出来るので、当然当たる確率は後者が遥かに上だ。
しかし、これには落とし穴がある。
月海が二枚目に引いたカードが、『スペード以外の7』と『スペード以外の8』
の可能性だ。
この場合、当然次のターンの雪人が苦もなくそのカードをゲットできる。
相手にみすみす特典を与えてしまう事になる。
その確率は、一回目に外したという前提の中で、49分の6。
よって、後者の場合は50分の6+49分の3の希望と49分の6のリスクがある。
一方、前者――――月海が実際に行った方法の場合は、50分の3の希望と
50分の3のリスクがある。
当たる可能性は低いが、リスクも低くなる。
月海が選択したのは、リスク排除の方法だった。
「やるな」
その方法が確率論として正しい訳ではないが、雪人は思わず呟いた。
と言うのも、この神経衰弱、確率論だけでは図れない部分もある。
それは、2〜10の数字カードと、J、Q、K、Aのカードとの格差にある。
神経衰弱において、これ等のカードに得点差は生じない。
が、『覚えやすさ』と言う格差は存在する。
絵柄のあるカードは当然、覚えやすい。
脅威の存在感を有しているAもだ。
それらのカードであれば、一度捲れた段階で、大抵の人は覚えられる。
だが、数字カードは忘れやすい。
特に、相手が捲った数字カードは、最も覚えにくい。
そこで、敢えて相手が捲ったカードを自分で直ぐにもう一度捲ると言う行動に
意味が生まれる。
自分で改めて捲る事で、覚えやすくなる。
相手に確認させると言うマイナス面もあるが、相手は自分で捲ったと言う
能動的な記憶である以上、その後も記憶に残す可能性が高い。
なら、リスク面は無視でき、自分が覚えると言うメリットだけが残る。
そこまで踏まえての行動であれば、かなりのやり手。
雪人の額に、冷汗が滲んだ。
「……厳しい戦いになりそうだ」
そんな呟きに、月海も心なしか目を細め、集中を示す。
和む筈の神経衰弱が、いつしか真剣勝負の様相を呈し始めた。
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