勝負を始めて、一体どれくらいの時間が経過したのだろうか――――
雪人はそんな漫然とした思考に、ふと寄り道をしていた。
まるで長時間、無呼吸で殴り合いをしていたかのような感覚。
少しでも気を緩めれば、立ち所に急所を殴打され、失神ノックアウトを食らうような危機感。
それくらいの集中力をもって挑んだ神経衰弱は、いつしか佳境を迎えつつあった。
「香莉さーん、フライパンって何処にありますー?」
「あー、そこのでっかい棚。まどっち、ついでに油も用意しといてねー。
ホラ、なんとかオイルっての使うんでしょ、確か。パスタって」
「了解です。この熊油って言うので良いんですよね?」
「よくわかんないけど、多分おっけー。あ、馬油も使ってみて」
現在、雪人の手元にあるカードは22枚。
A、2、4、5、7、10、Jを各2枚ずつ、3、Kを各4枚持っている。
月海の傍にあるのは、16枚。
その内訳は、A、2、5、8が2枚ずつ。
そして、9、Qを4枚ずつだ。
この6枚差は、あってないようなもの。
現在、テーブルの上で裏面を前にしている14枚のカードは、全てが一方に雪崩れ込む
可能性を十分に秘めているからだ。
「……包丁、楽しい」
「わわわ、結衣さん! 見ないで切っちゃダメですよ! ちゃんと手で押さえて……ひいっ!?」
「あぶない」
「手、手が……手が……あ、あります〜ふえ〜」
ここまでの流れで、テーブル上の14枚の中のカードの中で、一度捲っているのは全部で5枚。
4、6、8、10、Jを各1枚ずつ、既に捲っている。
そして、残り9枚(4、6、6、6、7、7、8、10、J)は、未開のカードとなっている。
現在、月海はその中の一枚を吟味している最中。
現在は彼女のターンだった。
もし、月海が既に捲られているカードを全て暗記している場合――――当然、これから
捲るカードは、残りの9枚と言う事になる。
この中で、捲った時点で自分の物に出来る可能性が100%となる数字は、当然5つ。
では、確率的に言えば、9分の5となる――――かと言うと、そうはならない。
問題となるのは、6の存在だ。
6はまだ、3枚が捲られていない。
その為、月海がこの14枚のカードの中から、『当たり』を引く確率は以下の通りとなる。
まず、14枚の内、月海が引くのは、まだ一度も捲っていない9枚。
その9枚の中で、捲った時点で100%自分の物に出来る数字は、当然既に捲っている
4、6、8、10、J。
では、この数字のカードは9枚の中に何枚あるのかと言うと――――
4、6、6、6、8、10、J。
6は、スペードのみ捲られているが、残りのダイヤ、ハート、クローバーは未開。
その全てが、月海にとって『当たり』だ。
よって、確率は9分の7。
7以外の数字を引けば良い。
実に80%近い勝率。
これで外す方が難しいだろう。
「ゆいゆいー、タマネギの木っ端みじん切り出来た? それ終わったら、
今度はパスタ茹でるお湯を沸かしてー」
「……はい。沸かします」
「ふう……ひあっ!? 結衣さん! 火が点いてません! しゅーって、
しゅーって言ってますよ!?」
「あれ、何か臭うような……って、結衣ちゃん!? 結衣ちゃんが倒れてる!?
換気、換気をーーーーーーーーーーーっ!」
更に、これだけではない。
その9分の7を外した場合も、まだ可能性はある。
7の数字を引いた場合も、残り13枚――――正確にはまだ未開の8枚の中で
もう一勝負が出来る。
偶々その8枚の中で当たりを引くケースだ。
もし、月海が1回目に『7』を引くとする。
その場合、8枚の中の1枚が『7』なので、8分の1の確率で当たる。
よって、結論としては、『7/9+2/9×1/8』が、月海が最初に当たりを引く確率だ。
ここで、雪人にとって重要なのは――――月海が14枚総取りする確率。
つまり、一度も『外れ』を引かないまま、最後まで行ってしまう確率だ。
月海としては、ここで勝負を付けなければならない。
若しくは、ここで外さなくてはならない。
仮に、ここで『7』を引いて、更に次のカードで7以外の数字を捲り、
外してしまえば、その時点で雪人の勝ちは決定する。
未開のどのカードを引いても、既に一度引いている数字となるからだ。
そして、雪人は、既に捲った全てのカードを記憶していた。
その為、月海にとってはラストチャンス。
まさに最終局面だ。
「ごめんなさい」
「やー、良いのよ無事だったし。良かった良かった。暫く換気扇は回しとこうね。
ゆいゆいは暫く休んでて、ね?」
「ううん、迷惑掛けたから、別のコトでがんばる」
「そ、そう……そんじゃ、重大任務をおおせ使わそうぞー。パスタを茹で茹でしてちょ。
私には、これからソース作りっていう大役があるから、そっちは任せた!」
「ん。がんばります」
その中で、月海が全てのカードを総取りし、勝利を収める確率は、約15%。
これは、『x回目に7を引き、且つもう一度7を捲って当て、その前後でも
既存の数字を捲り当てる確率』の総和だ。
決して高くはない。
雪人の勝利は、約85%の確率で決定している――――ように見える。
そんな状況の中で、月海は意を決し、一枚のカードを捲った。
「……!」
それは――――既に一度捲ってあるカード。
ハートの4だった。
更にもう一枚も、既に捲っているスペードの10を捲り、ターンを終える。
月海のこの行動は、賭けだった。
雪人に『7』を捲らせる為の。
雪人が次に7を捲れば、場のカードは全てが『一度は捲られた数字』となり、
月海の勝利が確定する。
ただ、それは雪人の勝利が決まる前、つまり雪人が28枚を確保する前でなくてはならない。
現在雪人が取ったカードは22枚なので、残り6枚。
一度当てれば2枚手に入るので、3回分。
よって、正確には『雪人が2回捲るまでに7が出て、かつ外れる』ことが、月海の敗北しない条件だ。
(3回目で7を引き、且つ外れれば、26対26で引き分けとなる)
この場合の月海の勝率は、実は30%にまで引き上がる。
雪人は以前、周藤とトランプで遊んでいた際に、この手の確率論を散々語られていたので、
こう言った局面のそれぞれの確率に関してはある程度知っていた。
それだけに、この月海の英断には、戦慄が走る。
もし、この全ての計算を、この僅かの時間内で行った上で、勝率のより高い
この方法を選択したのだとしたら――――それは天才に近い。
「あの、宇佐美さん……この缶詰、使っても大丈夫かな」
「あ、はい。大丈夫ですよー。でも、洋ナシとパイナップルの缶詰なんて、何に使うんです?」
「えへへ、ちょっと隠し味に。ほら、高い酢豚とかにも入ってるから、なんか高級感出そうじゃないですか?」
「そうですねー。甘みがあった方が美味しいかもしれないし、良いかもしれませんね」
雪人は冷や汗を浮かべつつ、卓上のカード14枚を睨んだ。
ゴクリと、無意識の内に生唾を飲む。
1度目で『外す』確率は、僅か20%弱。
1度目に『当てて』、2度目に外す確率は、10%程度。
この2パターンが、雪人の負けを意味するケースだ。
依然、圧倒的有利。
だが、雪人の心の中には、その余裕はもうない。
「……」
深く、深く息を吐く。
そして、精神を尖らせ、凝視。
透視ができる訳ではないが、念を送るような心持ちで、狙いを定める。
ここまで、終始お互いは無言。
だが、雪人は下手に会話をする以上に、このゲームを通して月海と語らってきたような
妙な錯覚を感じていた。
或いは、これを好敵手と呼ぶのだろう――――等と、妙な友情すら感じていた。
「ふっふっふーん♪ カラメルソースに岩海苔、コーヒー、黒酢……お手製イカ墨ソース
完成まであと少し!」
「香莉……それはイカ墨ソースじゃなくて、黒いソースなんじゃ」
「バカモンがっ! イカ墨ソースだって、ホントにイカ墨使ってる訳ないじゃない!
アンタ、イカの墨なんて食えると思ってんの? 墨汁食べるようなモンじゃないの。
それっぽいからそう呼んでるだけに決まってんじゃない」
「あ、そうなんだー。私知らなかった。イカ墨パスタって、イカ墨じゃなくて
それっぽい色のソースを使ってるのね」
「そうそう。だって墨なんて食べないでしょフツー。よし、完成! ゆいゆい、
パスタ茹で上がった?」
「ちょっと、ぷくーってなってます」
「オッケ! じゃ、一旦上げときましょ。宇佐美の方の結維、やっておしまい!」
「は、はいー!」
最終局面を前に、雪人は月海、いや好敵手の方に視線を向け、少しだけ笑う。
月海は、笑顔こそ返さなかったが――――視線を雪人の目に向けた。
見詰め合う、二人。
既に言葉は意味を成さなかった。
そこにあるのは、健闘を称え合う競技者達の、清々しい顔。
もう、既に手は尽くした。
後は運。
15%を30%に引き上げた月海の執念が勝つか。
70%の雪人が押し切るか。
意を決し、まず雪人は一枚目――――最も手前にあるカードを引いた。
「……!?」
そこには、ラッキーナンバーと言われる筈の数字が、あった。
『7』。
決して引いてはならない、悪魔の数字。
雪人は悶絶を禁じえない。
ここまで来て、ここまで来てこの仕打ちはないんじゃないか、と。
ひたすらに神を呪うも、現実は覆らない。
最後の可能性――――まだ見ぬもう一枚の『7』を引き当てると言う
可能性に、賭けるしかない。
まだ引いていない7は、残り13枚の中に1枚だけ。
だが、既に捲っている『7でない』カードは5枚あるので、8分の1――――
「……!」
そこで、雪人は慄然とする。
既に捲ったカードの記憶が、飛んでしまっていた。
何処にあるカードが、既に捲ったカードなのかが、わからなくなっている。
一体、いつから?
完全に覚えていた筈の、捲ったカードの位置が、全くわからなくなったのは
いつからなのか?
雪人は、混乱していた。
「……湖さん、これ何?」
「ふっふーん。窓霞ちゃんお手製パスタソース! 香莉さんだけにこの役は
譲れないからねー。私も作っちゃった」
「おいしそう。色がきれい」
「ありがと。結衣ちゃんは良い子ねー。将来、私の養子にならない?」
「ならない」
「あらー、湖さん、フラれちゃいましたね」
「うう……あ、宇佐美さんもソース作ったんですか?」
「はい。3種類くらいあったら、色合いも良いかなと思いまして。
思い切って、15種類の缶詰を使って作ってみました」
遠くに聞こえる、聞こえない振りをしておかないと色々精神的に折れてしまいそうな
喧騒を背に、愕然とした面持ちで、雪人は自分を顧みる。
月海が先程、既に捲ったカードを2枚引いた時点で、平常心を失っていた。
その時点で、記憶が飛んでしまった。
記憶は、心が波打てば、脆くも崩れる。
それが、雪人の――――敗因だった。
8分の1ですら厳しいのに、それが13分の1になってしまっては、最早お手上げ。
雪人の2枚目に引いたカードは、無情にも『6』だった。
そして、決着。
残りのカード全てを、月海は淀みなく引き当てて行った。
「……俺は……負けたのか……」
その様子を眺めながら、雪人はポツリと呟く。
「認めなくちゃいけないな。完敗だ。暗記力や運じゃなく、神経戦で負けた。
これは神経衰弱。まさしく、俺の神経そのものだった……」
肩を落とす雪人に、月海は――――キョトンとしていた。
「ふっ……敗者にかける言葉はないか。流石、吉原。それこそ、勝者の模範像だよ。
お前がナンバーワンだ」
「……?」
やはり、月海はキョトンとしていた。
珍しく首を傾げているあたり、『なんかテキトーにやってたら勝っちゃっただけなのに
どうしてこの人はこんなに色々呟いているんだろう』と言うような感情が見て取れなくも
なかったが、それを認めると余りに空しくなるので、雪人は暫く『大激戦の末の敗者』を
演じたまま、空笑いを続けた。
「よーし! 盛り合わせ完成! さあ、ちゃっちゃと運びましょう!」
そして、キッチンの方からは、香莉の死刑宣告のような声が聞こえて来た。
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