翌日――――頭を抱えながら研究室を訪れた雪人は、まず縷々の泳ぐ水槽を確認し、
変化がない事に小さい息を落として、誰もいないその部屋の少しボロいソファーに
ゆっくりと倒れ込んだ。
「やあ、大変だったみたいだね。二日酔いかい?」
その頭上から、のんびりとした口調の男声が降って来る。
隣の部屋の主、大友教授の声だった。
「飲んではいないんですけどね……酒気にやられたと言うか」
「相当弱いんだねえ、アルコール」
「アルコールは悪魔ですから」
「そう言えば、そう言う説もあるねえ」
横たわったままの雪人に対し、大友教授は笑いながら、対面のソファに腰掛ける。
基本的に、教授と言う職業はどの分野であっても、仕事場を選ばない。
強いて言うなら、頭の中こそが職場。
その事もまた、雪人がこのツアーで学んだ事の一つだった。
「で、君はこれからどうするの? 帰る日時は決めてる?」
『おたのしみ☆大学都市体験ツアー 〜ブルーバード・オデッセイ〜』
そんな名称のツアーも、残すところ、後一週間だ。
ただ、この一週間と言う期間も、残すところ――――と言うのは語弊がある期間。
本日から、いつ帰ってもいいよう、毎日本土への定期船が出るようになっている。
夏休みギリギリまでツアーに参加していたい参加者もいれば、早めに帰って
新学期の準備をしたり、夏休みの思い出を別の場所で作ったりしたいと言う人もいる。
そういう配慮もあっての、このような形式と言う事らしいが、雪人は今のところ――――
「まだ課題が終わってないですから。終わってから決めます」
直ぐに帰る、と言う選択肢は排除していた。
実際には、理由はそれだけではない。
少なからず、そこには――――この研究室で過ごした日々の残影というものが
関与していた。
「ああ、その課題に関してはね、別に気にしなくても良いんだよ。ここはあくまでも
仮初の大学だから、課題の提出が義務付けられている訳じゃないんだし。
体験する事を前提にしてる訳だから、自分で一区切り付いたと思ったら、
いつでも持ってきてよ。採点する訳じゃないけど、何か助言めいた事くらいは
言えると思うからね」
「ありがとうございます。でも、出来るだけ中途半端にはしたくないんで」
学校で出される宿題に関しては、雪人は比較的真面目にやる方だが、
それはあくまでも教師に怒られないようにする為。内申を気にすると言う意図すらない。
敢えて言えば――――宿題をする事で、優等生にでもなったかのような
ちょっとした優越感を味わえた小学生時代の名残、と言えるのかもしれない。
だが、大友教授から出された課題は、その宿題とは全く異なるもの。
自発的に取り組んでいると言う訳ではないものの、そこには自分の意思が明確に存在していた。
だからこそ、中途半端な状態で投げ出す気にはなれない。
それが、今の雪人の心境だった。
「大学、入る気になったかな?」
突然、大友教授がそんな質問をしてくる。
雪人は暫し考え、答えを吟味した。
「……このツアーに来る前は、高校までの惰性で大学に行く事に抵抗があったって言うか、
正直あんまりピンと来てなかったんですよ。かと言って、就職難の今、現実問題として
高卒でどんな仕事が見つかるのかって言うと、多分見つからないと思うし。ただ、
そういう状況で、なんとなく大学に入るのが嫌で、こんな変なツアーに参加したんですけど……
実は、まだピンと来てないんです」
「僕の研究室じゃ、あんまり魅力が感じられなかったのかな」
「いえ、逆です。楽しくて、ちょっと楽し過ぎて……それでピンと来てないんだと思います」
これまでの約一ヶ月間を振り返りつつ、雪人は噛み締めるようにそう唱えた。
別に、現在の高校生活に不満がある訳ではない。
友人と呼べる人間がいて、世話になっている女教師がいて。
その中で、取り敢えず衣食住に困る事なく生きて行けている事は、寧ろ贅沢とさえ言える。
中学時代までの荒んだ生活とは雲泥の差だった。
ただ――――それでも尚、このツアーに来てからの毎日は、あらゆるものが
その日常とは異なっていた。
輝きがある。
張りがある。
新鮮な出来事の連続。
それは、今まで縁が薄かった女子との交流と言う点も、少なからず絡んでいる。
色んな面で、雪人にとってこのツアーは大きな刺激となった。
そして、だからこそ、迷いが生じている。
「大学に実際行ってみて、こう言う楽しいところじゃなかったとしたら、俺はきっと、
後悔すると思うんですよね。そして、その確率は相当高いと思うんです」
「そう? 実際のキャンパスライフも、十分楽しいと思うけどね。君くらい
社交的なら、友達もいっぱい出来るだろう。学ぶも遊ぶも、不自由しない場所だよ。
良くも悪くもね」
「社交的じゃないですよ、俺は。今の俺は、旅行に出かけて浮かれてる観光客
みたいな精神状態だから、多少はそう言う感じになってるかもしれないですけど」
実際、人生の中で友人関係を築けた人間は数えるほど。
社交的というには、材料が少なすぎた。
「そう言う、自分を客観的に見られる点も含めて、君は研究に向いてると思うんだけどねえ」
「……研究?」
大学生と言う枠を飛び越えたその発言に、雪人は思わず首を傾げる。
当然のように、そんな事を言われた経験はない。
「もちろん、大学に行く人間が皆研究をする訳じゃない。卒業論文にしても、
研究って言うよりは作文に近い形態のところも多いしね。ただ、何にしても、
大学って言うところが研究施設である事は変わらない。つまり、大学生としての適性は
本来、研究生としての適性と同義の筈なんだよね」
教授と言う立場にいる人間のそんな大胆な発言に、雪人の首が更に角度を付けた。
「ま、実際にはそうでもないって言う現実があるんだけど……何にしても、
残りの期間でその答えが出せるよう、僕も出来る限りサポートするよ」
「は、はあ……ありがとうございます」
やけに強引な収束を見せたその会話の余韻が、雪人の頭の中で霧のように
広がっていく。
残り僅かの大学生活(仮)。
その中で、果たして何か決定打が見つかるのか。
それとも、見つからないのか。
実は――――雪人は、それに関しては然程気にはしていなかった。
初志貫徹、と言う尊い言葉はあるし、進学か否かの選択が迫られていると言う
現実も迫ってはいるが、既にツアーに参加した意義や元手は取っている気が
していたからだ。
「それじゃ、今日はフィールドワークに行っています」
「一人でかい?」
「他の連中は軒並み二日酔いで死んでるんで。それに、偶には一人で動いてみるのも
いいかな、と思って」
まだ午前中の柔らかい日差しが島中を包み込む中、雪人は自分の使っている
机に仕舞っていた資料関連の書類をクリアファイルに収め、それをカバンの中に入れた。
「やっぱり君は、研究者向きの性格だよ」
そんな雪人に、大友教授は小さな音量で、そして微笑みも添えて、そう呟いた。
フィールドワークと仰々しい言葉を使ってはいるが、やっている事は基本、散歩に近い。
時間的に、島中の自然や生態を調べることも不可能。
まして、本日は静もいないので、足がない。
そこで、雪人は――――改めて大学内の探索を行う事にした。
大学のフィールドワーク。
それに、研究としての意義があるわけではない。
既に地図も存在しているし、資料的価値が生じるわけではない。
やはり、ただの散歩。
それでも、雪人にとっては別に構わなかった。
ある意味、思い出作りの一環でもある。
思えば――――ツアーに参加して以来、この大学を隅から隅まで歩くと言う事を
一度もした事がなかった。
大学の敷地は、かなり広い。
高校までの学校しか見た事がなかった雪人にとっては、それ自体が一つの事件だった。
ツアーに参加し、この島に降り立った翌日に、初めてここを訪れた際、
雪人は一種のカタルシスすら覚えていた。
『学校の敷地内に道路がある』
『学校でマンガが売っている』
『映画館みたいな机椅子の配置の教室がある』
例えば、こんな凡庸な驚き。
大学を舞台としたドラマでも見れば、そこには普通に広がっている光景かもしれない。
それでも、雪人には新鮮に映った。
その日の事を思い出しながら、改めて大学の入り口にある門へと向かう。
大きな駐車場と、黄色の駐車場入り口ゲートが視界に飛び込んでくると同時に、
車を運転した事がない雪人は、それを運転し、大学へ通学する自分を想像した。
はっきりと、その映像が浮かんでくる。
それは、余りに鮮明だった。
まるで、自分が一度そんな経験をしているかのように。
自分自身の想像力の豊かさに苦笑しつつ、道路を前進。
その先の右側に、噴水のある公園が見えてきた。
初めてここを訪れた際、湖と共にここへ来た事を思い出す。
更に、その奥にある大講義室へも、何度か足を運んだ事があった。
ある意味この光景は、キャンパスライフの象徴なのかもしれない――――と、
その二つの施設を眺めつつ、思う。
その後、更に道路を進み、生協の施設があるところで右折。
その通りには、大学会館や体育館、プールなどがある。
体育館に行った事もあった。
警備員としての仕事で、何故か湖や結衣がついて来た。
そんな思いでも、今はまだ色褪せる事なく残っている。
右側に見えるスポーツセンターや情報処理センター、保健管理センターと言った
施設には、足を運ぶことは殆どなかった。
警備員として回った際には、施設の外観だけは見ているが、その中に入っていない。
なんとなく――――雪人は、それらの施設にふらっと立ち寄った。
フィールドワークと言う意識は特にない。
ただ、漫然と携帯で写真を写したり、施設内の案内をメモしたりして、
更になんとなく、事務員からちょこちょこ話を聞いたりした。
そういう事自体、能動的に行える性格ではなかった。
中学時代、仕事と称されて振り回された頃でも。
今はただ、漠然とした使命感のようなものが、雪人を動かしてた。
少しでも、一つでも。
このツアーに参加した思い出を、積み重ねたい。
そう言う思いで、大学内の施設を巡り巡っていた。
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