時間は平等。
 それは、どんな人間に対してもそうであるように、どんな状況であってもそうだ。
 ただ、そこには例外もある。
 人間の体内――――体感時間だ。
 一日が過ぎる時間は、いつの日でも同じ。
 でも、それを早いと感じたり、遅いと感じたりするのは、誰もが経験する事だろう。
 勿論これは、公式に『時間の流れは人それぞれ』とアナウンスされるような、
 科学的な証明になるようなものではなく、精神論の部類に入る。
 時間の流れは一定。
 でも、感じ方は人それぞれ。
 観測者が違えば、同じものであっても、その観察物の色も形も異なると言う、
 別の分野における同一性の定義の問題だ。
 けれど、はっきりしている事は――――同じ人間の中でも、時間の体感速度は
 その時々によって大きく変わり、何かに夢中になる時間ほど早く過ぎると感じる事。
 雪人はそれを痛感しながら、パソコンに向かい、夢中でキーを叩いていた。
 8月28日(金)。
 その早朝――――というよりも、明け方。
 目に隈が出来ている事を自覚しつつ、それでも夢中になって文字を連ね、
 レポートを作り上げていた。
 高校生の拙い知識と、中途半端なフィールドワークによって作られた
『青い鳥大学』のマップ。
 以前、大学から離れた自然の森林を調査した際に、自分なりに感じた事、或いは
 反省点などを踏まえ、それをこの大学の調査にフィードバックさせ、作ったマップだ。
 当然、ただの地図ではない。
 と言うか、物理的な地図ではない。
 各施設の人の流れをマップ化したものだ。
 フィールドワークにおける生態調査で、わかった事。
 たったあれだけの事で、この島の生態に関する情報が得られる事はないが、
 一つだけ、雪人は大きな事を学んだ。
 それは――――それぞれの生物に、それぞれの領域があると言う事。
 そして、その領域を守る為に、生物はそれぞれの形に進化しているという事。
 守る為に攻める生物もいれば、守る為に擬態する生物もいる。
 それは、人間社会においても同じだと、大学を観察しながらに感じていた。
 この大学は、ノーマルな大学ではない。
 あくまでも、大学と言う所を手軽に知って貰う為の、いわばプレ大学。
 だから、最初は多くの参加者が、これぞ大学と言うような『大講義室』や『学食』、
 或いは各種サークルの部室等に多く集まっていた。
 ただ、この終盤に来て、それぞれの目的や趣旨嗜好がはっきりした今、
 観光的な要素は消えて、それぞれの参加者が自分の『領域』を見つけ、
 その領域の中を動く日々を迎えている。
 雪人が調査をした五日間において、人の流れは殆ど変わらなかった。
 人間が、どの程度の期間で自分の領域を見つけ、そこに生活を合わせるか――――
 もし初日から調べていれば、それがわかったかもしれない。
 ただ、それでも、ツアーと言う観光的要素の高い中でも、一月の間に同じ空間で
 生活をしていると、生活のリズムは一定化し、行く場所も固定されて行く
 と言う事がある程度わかった。 
 そんな研究結果を、丸一日かけて論文っぽい感じで纏め、そして――――
「終わ……った」
 完成させる事に成功した。
 時刻は朝の7時12分。
 貫徹だった。
 別に、本日中に完成させなければならないと言う縛りはない。
 それだけ、夢中になっていた。
 そこまで集中した理由は、二つ。
 その内の一つは、単純に『課題』に対し、のめり込んだからだった。
 特別な事をした訳ではないし、特別な発見があった訳でもない。
 ただ、自分なりにテーマを決めて、試行錯誤し、過去の経験を生かして、
 一から筋道を立てて理論を組み立て、それを纏め上げると言う、今までに経験のない
 作業を行った事に、やりながら充実感を覚えていた。
 そして今は、一種の達成感がある。
 その実感と同時に、理解した。
 これが――――研究なのか、と。
 大学の魅力なのかもしれない、と。
「ご苦労さん。首尾はどう?」
 となりの部屋から、大友教授がニュッと顔を出す。
 彼もずっと、篭りきりだった。
 自身の研究が佳境を迎えているらしい。
 本来いる大学の研究生達と連絡を取り合い、データのまとめをしながら、
 頻繁に車を出して調査にも向かっていた。
 まるで苦しそうな素振りは全く見られない。
 好きな事をしているからだろう――――そう容易に推測できるほど、
 大友教授の表情は活き活きしていた。
「たった今、完成しました」
「お、それはおめでとう。プリントアウトして、ちょっと見せてみてよ」
「わかりました」
 印刷ボタンをポチっと押し、プリンターが起動する音を聞きながら、
 雪人は首の運動も兼ねて天井を仰いだ。
 いろんな事があった場所。
 いろんな事を考えた場所。
 もし、この課題に合格を貰えたら、この日が最後となる。
 そう決めていた。
 もう夏休みは終わる。
 新学期の準備もしないといけない。
 夏休みの課題は全然やっていないから、帰りの船の上や帰ってから
 必死になって消化する必要がある。
 ただ、いざとなったら、周藤の力を借りれば良い。
 だからこそ、ここまで引っ張った。
 なるべく、現在の高校生としての自分を忘れて、離島にいる自分を満喫した。
 けれど、楽しい時間はいつまでも続かない。
 ずっと、ここにいられる訳ではない。
 必ずしも、全てをやりきった訳ではなかった。
 色んな事を、もっとやりたかった。
 警備員としてのアルバイトも中途半端な形で終わったし、その警備の際に起こった
 出来事にしても、結局真相はわからず仕舞い。
 ただ、今となっては、それも過去の事だった。
 それより――――ここに来て知り合った連中と、もっと色んな事を一緒になって
 取り組みたかったという後悔が、頭の一番前の方にあった。
 気付けば、印刷は終わっていた。
「……お願いします」
 ページ順にまとめ、教授室へ赴き、椅子に腰掛けてタバコをふかす教授へと提出する。
 緊張感はあった。
 決して、分厚いレポートではない。
 誤字脱字のチェックや添削もしていない。
 図解などの挿入もなく、フローチャートやグラフなど、最小限の資料のみを
 殆ど手探りで作っただけの、拙い論文。
 それでも、雪人は『OK。ご苦労さん』と言って貰えると期待していた。
 よく言えばさっぱり、悪く言えば淡白。
 大友教授の性格は、この約一ヶ月近い離島生活の中で、ある程度把握していた。
 だから――――意外だった。
「良く、見つけたね」
 その言葉は、本当に意外だった。
「このテーマは、君が考えたのかい?」
「え。え、ああ。はい。自分で」
 思わずどもる程、意外な反応。
 雪人は半ば恐縮しながら、言葉を待った。
「フィールドワークの本当の目的はね、例え自然科学でも、文化や民族の調査でも、
 結局のところは同じなんだ。触れる事。どんな分野でも、まずは自分でそれに触れて、
 初めて本質が見える。データ収集だけが目的じゃないんだ」
「それは、実感しました」
 自然の中に入って、実際にそこで歩き、見て、触れる。
 大学を歩き回って、そこで動く人々の流れを見て、表情を覗き、足取りを見送る。
 植物が、昆虫が、人間が、呼吸をしている。
 その息吹を感じて、初めてデータが輝いて見える。
 ただ漫然と、教科書に載っているグラフや黒板に書かれた表を眺め、その数字を
 ノートに写し、覚え、テストの時に書く。
 そんな作業の繰り返しの中では見つけられない宝物のようなものを、雪人は
 この離島に来て見つけたような気がしていた。
「閉鎖空間における、集団心理の一つの定型なんだよ、これは。今回みたいな
 特殊な催しでも、それが殆どの人に適用される事を示したこの論文は、
 十分な資料になる。素晴らしいよ」
「あ、ありがとうございます」
 手放しに褒められると言う経験を、雪人は殆どした事がない。
 どう対応して良いかわからず、思わず高速で頭を下げた。
「えっと、合格……で、いいんでしょうか」
「勿論。ただし、本当に大学に行って卒論を作る時は、過去の先輩方の論文を
 しっかり見て、体裁を整えて、それらしく作らないとね。でも、今はこれでOK。十分だよ」
 大友教授は、雪人の作ったレポートの表紙に、自身の印鑑をポン、と押し、
 コピーカードと共にレポートを雪人へと返した。
「コピーをお願い。資料として、僕も取っておきたいから。オリジナルは君が持っておくと良い」
「は、はい!」
 珍しく声を張って返事し、雪人は踵を返す。
「あ、ちょっと待った」
 が、呼び止められて振り向くと――――今度は封筒を手渡された。
「すっかり忘れてたね。これ、アルバイト代。助かったよ」
「あ、俺も忘れてました」
 苦笑しつつ、中身を確認すると――――時給以上の額が入っていた。
「トラブルで終了が早まった分と、就労中の対応の良さを評価して、その額だって。
 良かったね」
「ありがたい話です」
 色んな充実感や感動が入り混じり、苦笑しつつ、仕舞う。
「いつ戻るか、決めてる?」
「はい。今日中に帰ろうかなと」
「随分急だね。谷口君がぼやいてたよ。『最近ゆっきーが遊んでくれないから詰まらない』って」
「あの人は、俺を玩具か何かと勘違いしてるみたいです」
 嘆息しつつ、その香莉をはじめ、ここで知り合った面々の顔を思い出す。
 これだけの数の女子と接した経験は初めて。
 それでも、余り居心地が悪くなかったのは、不本意ながらもあの女性の存在が
 大きかったのだろうと、雪人はまた苦笑した。
「最終便は午後からだよね。今からお別れ会でも開こうか。皆を呼んでさ」
「え? い、良いですよそんなの。大げさですし」
「実は、吉原君も今日帰るみたいなんだよ。昨日提出して貰った時に、そう言ってたんだ」
 だから、合同で――――大友教授は、そう笑いながら告げた。
 あの地獄のお泊り会以降、雪人は自分の課題に没頭していたので、彼女達と会う機会は
 殆どなく、それぞれの動向や帰る日などは知らなかった。
 警備員として一緒に働いた小林に関しても同様。
 偶に見かけたあの変態はどうでも良かったが、それ以外の面々とは、面と向かって
 別れの挨拶くらいはしたいと思っていた。
「わかりました。じゃ、俺は買出ししておきます。折角色つけて貰った事だし」
「それは自分の為に使いなさい。言いだしっぺが出すよ」
 万札が5枚、雪人の手に渡される。
「……随分太っ腹ですけど、良いんですか?」
「教授らしい事、殆ど出来なかったからね。ま、最後くらいは」
 雪人はそんな『らしい』言葉に、思わず苦笑し、踵を返す。
「それに、どうせ泡のようなお金だから」
「泡銭……パチンコか何かで勝ったとか?」
「今回は色々成果もあったから、ちょっと奮発ってところかな」
 大友教授のそんな答えに、雪人は感謝の異を唱える。
 そして――――
「次回もこうなれば良いなあ。それじゃ、宜しくね」
 二度目のツアーにも参加する予定なのか、そんな事を呟いていた。


 その後――――大友教授が呼んだ面々は、簡素ながらお別れ会を開き、
 それぞれの現状と今後について報告し合った。
 面子は、歓迎会を開いた際の半分程度。
 そこには何故か、無量小路の姿もあった。
「この無量小路、こう言った場には慣れておらぬ故……くう、感動的ですぞ〜!」
 そして何故か、感無量と言った顔で熱唱していた。
「ゆき、今日帰るの?」
「うん。結衣ちゃんは?」
「あした。湖さんが、一緒に帰ってくれるって」
 知らない間に、割と友情が芽生えていたのか――――湖を見る結衣の視線からは、
 完全に人見知りの色が消えていた。
「どうせなら、みんなで明日帰るってコトにすれば良いんじゃない?
 別に今日帰らなくても良いんでしょ?」
「つってもなあ。もうターミナルに予約の電話しちゃったし」
「そんなの、ここに事務員がいるからキャンセルできるってば。ね、谷口さん」
 話を振られた香莉は、やさぐれた顔を向けてくる。
 ちなみに、アルコール類は今回一切置かれていない。
 雪人が購入した飲料水は、全てジュースやお茶の類だった。
「ま、出来ないコトもないけどねー。でも、ゆっきーは今日帰りたいんでしょ?
 私達を置いて、一人でさっさとお家に帰りたいんでしょ?」
「何でそんなキレ気味なんだよ」
「うっさい。折角、こんなに友情を育んできたのに……黙って帰ろうとしてたなんて。
 人間としてどーよ?」
 黙って帰るつもりはなかったし、そもそも友情より殺伐としたものを育んでいた
 ような気もしたが、雪人は苦笑しか返せなかった。
「勘弁してあげて下さいね。この子、寂しかったんですよ。黒木さんの事を
 弟みたいに思ってたみたいです」
「弟……?」
「結維、余計な事は言わないで良いの」
 宇佐美嬢のフォローに対し、香莉はジト目でチョップを入れる。
「痛いです……黒木さん、今までありがとうございました。色々ミスをした私に
 優しく接してくれて、とても感謝してます」
「こっちこそ、少ない良識人の存在でいてくれて、助かりました」
 お互いに礼。
 そう言えば、このツアーの最初の出会いは彼女だったなと、雪人は
 ひっそりと思い返していた。
 そして、無量小路のビブラートを聞かせ過ぎな熱唱が響く中、今度は小林が
 近付いてくる。
「お疲れ。今日帰るって?」
「ああ。そっちは?」
「俺は明後日。色々世話になったな。つーか、テキトーにメールすっからさ、
 偶にでも遊ぼうぜ。相談とかしてーし」
「住んでるトコ、結構遠かったろ?」
「どうとでもなるって。んじゃ、またな!」
 女性恐怖症の小林は、周囲の女子に若干恐々としつつも、爽やかに去っていった。
 そして、お別れ会は賑やかなまま、終焉を迎え――――
「じゃ、ここで。見送りはいらないから」
「お世話になりました」
 湖、結衣、香莉、宇佐美嬢が見送る中、雪人と月海は大友教授の車に乗り込んだ。
 車の中では、殆ど会話はなく、沈黙のまま景色と時間だけが流れていく。
 窓から覗く風景は、既に何度も見たものだったが――――最後と言うフィルター越しの
 所為なのか、何処か新鮮に見え、雪人はずっとその景色を眺めていた。
「ありがとうございました」
「助かりました」
「うん。それじゃ、二人とも頑張って」 
 言葉少なに別れを済ませ、大友教授の車はターミナルから離れていく。
 その後、二人で乗船手続きを済ませ、待合所の椅子に腰掛ける。
 雪人は、荷物の確認をすべく、一旦カバンを下ろし、中身を覗いた。
 その中には、携帯電話や着替えなど、様々な荷物が入っている。
 そして――――その一つに、携帯用の小さい水槽があった。
 ただ、水は入っていない。
 そこには、大量の砂が入っている。
 呼吸をする存在は、その中には――――存在なかった。
「……ゴメンな」
 雪人は、月海に向けて小さく呟く。
 或いは、その水槽に向けて。
「黒木さんは、何も悪くありません。きっと、縷々も幸せだったと思います」
「でも、俺がもっと注意深く見れれば……」
 毎朝、昼、そして夜。
 一日三度、餌やりがてら、その白点の数を確認し、体調をチェックしていたが――――
 四日前、縷々は動く事を止めていた。
 調査とレポート作成に夢中になった、もう一つの理由。
 それが、縷々の死だった。
 やるせなさを忘れる為、没頭した。
 暫く、誰にも会う気になれず、一人研究ごっこに邁進した。
「自分を責めないで下さい。悲しいですけど、熱帯魚を飼っていれば、
 必ず起こり得る事ですから。私達人間より長生きする熱帯魚は、ごく一部の例外を
 覗けば、いないんです」
「……」
 それでも、雪人は月海の方を正視出来なかった。
 自分を信頼し、譲渡してくれた彼女へ顔向けできなかった。
 何より――――何処かで心を通わせたような気持ちになっていた縷々の死は、辛い。
 月海の顔を見ると、それを思い出してしまい、それを思い出してしまう。
「時間、みたいです」
 その月海が告げる通り、乗船を促すアナウンスがターミナル内に響く。
 当然、来た時よりもかなりその人数は少ない。
 そして何処か、寂寞感が漂っていた。
「行きましょう」
「……ん。そうだな」
 沈んだ気分を無理に引き上げ、雪人はバッグを持ち、月海と並んで階段を登った。
「吉原は、大学に行く予定?」
「はい。このツアーの中で、ある程度将来の事が見えてきました」
「そっか。そりゃ、大したもんだ」
「黒木さんは?」
 フェリーに移り、中の広々とした2等級室の広間に腰掛け、バッグを置き、
 雪人は嘆息交じりに倒れ込んだ。
「わかんない。けど、研究は楽しそうだなって思った」
「それなら、行った方が良いと思いますよ」
「そっかな」
「そうですよ」
「そっかな」
「そうですよ」
 リフレイン。
 まだ出港していないフェリーは、波に揺られ、ゆらゆらと漂っている。
 泳ぐ魚の気持ちになって、雪人は目を瞑った。
「……そうかもな」
 ゆらゆらと。
 ゆらゆらと。
 ゆらゆらと。
 ゆらゆらと。
 複雑な心境を、両極に揺り動かす。
 その一定の律動は、眠気を誘った。
 睡眠不足も、多分にあった。
 張っていた気が緩んだ事もあった。
 ゆらゆらと、睡魔が訪れる。
 あらゆる事を忘れて、楽になれと言わんばかりに。
「きっと、そうです」
 月海の声が、遠くに聞こえる中――――雪人は、静かに意識を委ねた。
 何もかも忘れて。
 今はただ、この心地よい律動に身を任せて。
「細くても長く、いつまでも続いて行く――――いつまでも――――きっと――――」
 そんな、誰の声か判別できないような言葉が、途切れ途切れになって行く中。
 雪人は、眠った。


『今回は、良かったね』
 声が聞こえる。
 先程途切れたものとは、全く違う声。
 徐々に、景色も色を帯びていく。
 そこは――――研究室だった。
 見慣れた部屋。
 見慣れた光景。
『綻びも、かなり減ったみたいだよ。特に後半は。大きなトラブルもなかったからね。
 これなら、次の段階に進めそうだよ。うん、そう。そう言う事だね』
 ただ、光舞うその空間には、影も差していた。
 光あれば、影がある。
 光なくして、影はなし。
 何もかもが、そうであるように。
『それじゃ、次は――――脳指紋に関するAとBを開放。宜しくお願い』
 揺蕩う光の群れが、少しずつ色を成し、影を追い越していった。
 それは、フラッシュバック症候群と呼ばれる症状。
 一瞬の閃きが、膨大な量の粒子を生み、形を作る。
 入れ替わるように、そこに映った景色は――――


 景色は――――


「……え?」
 目を開けると、見慣れた天井が広がる。
 和風ペンダントの照明が、少し燻った色で釣られた、小さい天井。
 そこは、いつもの部屋だった。
 高校生活を始めるにあたり、一人暮らしを始め、以降ずっと寝泊りしている、
 自分が生活を営む拠点だった。
 それが、フラッシュバック症候群によるものではなく、現実の光景であることを
 理解するのに、かなりの時間を要した。
 同時に、記憶に混乱が走る。
 雪人は、自分が眠りに就く前にいた場所を、覚えていた。
 フェリーの中。
 間違いないと確信していた。
 それが、何故自分の住んでいる部屋へ戻っているのか。
 起きるとすれば、フェリー上以外はあり得ない。
 仮に、寝たまま一人フェリーを降り、自分の部屋のあるアパートまで移動し、更に
 ベッドの中で眠る――――それは絶対に不可能な事だった。
 だが、条件を変えれば可能ではある。
 第三者の存在だ。
 雪人の住んでいるアパートを知っていて、尚且つ移動手段を持っている人間。
 そして、それが該当する人間が、いる。
 大河内静。
 一足先に帰っていた、雪人の担任。
 彼女が、フェリーが到着しても眠ったままの雪人を担ぎ、車に押し込み、
 ここへ連れて来た――――と言う可能性はある。
 或いは、彼女の叔父が手を貸したかもしれない。
 いずれにせよ、それ以外は考えられなかった。
「……くあ」
 欠伸をしつつ、携帯電話を探す。
 それは、テーブルの上にあった。
 直ぐに目に入った時点では、取り立てて不自然さも感じなかったが、
 徐々に不可解な事に気付く。
 携帯電話は、ツアーに持って行っていた。
 フェリーの上では、カバンの中に入れていた。
 それをわざわざ、静が取り出し、テーブルの上に置くと言うのは、
 どう考えてもおかしい。
「……」
 恐々と、雪人は携帯を手に取った。
 着信履歴を見るつもりでいた。
 だが、それより先に、信じ難い表示が目に映った。




『07.01 WED』




 それは――――




 ツアーに参加する、ずっと前の日付だった。
 


 





                                      
4th chapter  "cat's-eye syndrome "
                                         END












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